きのこ・科学・安全性

北国こうめい

2004年10月22日 05:58

きのこは食用と毒の境界がはっきりしないことが多い。酒といっしょに食べると悪酔いするキノコなど、並行する他の条件で左右されやすい。もともと菌類は動物や植物にとって「毒性」を持っている。それは、医薬品に似たところところがある。薬効と副作用の関係と同様な性格を持っている。

きのこや菌類の研究が「抗菌薬」や「抗ガン剤」開発のためにすすめられてきたという。毒性があるからこそ、薬として使えるのではないか。毒性と安全性をより明らかにするために科学的な研究が進められるべきであろう。

ともすれば、商業的利益をより得るために科学研究が道具とされる。新しい技術がどれほど「すばらしい利益をもたらすか」をその技術と知識をもって、 ”無知なる人々”に説こうとされることがある。そこはかとなく不安を抱き、どちらがいいか判断が付きかねる人が多い時は、より慎重であることに遠慮はいらない。
新しい技術と科学の発展の歴史は、いつもその輝かしい面が強調されその進展と共に、副作用ともいえる弊害や害毒が持たされていることを、遅れて思い知らされてきた歴史でもある。

 とかく知識人や科学技術者は一般の人々の非科学性を悪し様に言いがちである。知識があればあるほどに自然の摂理に謙虚でありたい。人間のもつごう慢さが「環境破壊」を言わなければならない状況を作ったことに気が付いたばかりではないか。レオポンなる奇獣を生ませ、バイオ技術のクローン牛を短命に生かしたではなかったか・・・。

なまじっかな知識を持たない私ら一般消費者は、惑わせる知識がないだけに、感覚的・情緒的な感覚と経験で自分に取っての善悪を判断しようとする。自分とその子孫の生命を脅かすものに対して本能的・感覚的に拒否さえする。その第六感的感覚は馬鹿にしたものではないように思う。

水俣病の国と県の責任を認めるのに科学的な知見はどれほど、それを阻害してきたか。科学と道具は使い方を間違えるととんでもない危害を人間に与える。

食用きのこの中毒(?)らしき話だったが、遺伝子組み換え大豆の栽培「安全論争」の異状さが気になりだしている・・。
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